親の死から2年して気づいたこと!めっちゃ嫌っていた父に似て来た…

生き方

どうも。猫のくにから来た女です。

2021年に父が亡くなり、両親がこの世に居ない状態になって2年が経ちました。

あるある話かもしれませんが、両親どちらもバランス良く好き・嫌いという人は少ないですよね?わたしの場合、ガミガミ厳しい父親が怖くて苦手…いや、正直嫌いでした。

夢をつぶすドリームキラーに感じていたし、ことごとく子どものやりたいことに反対する無理解な頑固親父に見えていたからです。

でもそんな父が亡くなって2年経つ今では、「あれ!?めっちゃ父に似て来た?」と気づいてしまいました。

親の死で気づいたこと1:几帳面でコスパ重視の父に似てきた

親の死で気づいたこと1:几帳面でコスパ重視の父に似てきた

父は無駄遣いが嫌いで、物を増やし過ぎると部屋がごちゃごちゃして結局失くしがちだとか、大切に扱う気持ちが失せて無駄買いにつながるからと、こまめに整理整頓するタイプでした。

10代のころのわたしの部屋はものすごいカオス状態でしたので、暇さえあれば「片付けなさい」と言われ余計に反発。

片づけられない母(わたし以上)も父に注意されていたので、「男のくせに細かい!ホントうるさいよね~」と母娘で陰口大会したものです(笑)

しかしその後、片付け本や掃除のメリットが書かれた本に出会うなどして「父の考え方は間違ってなかった」と気づくも、片付いたり散らかったりのリバウンドを繰り返しながら20代~30代を過ごしました。

父が亡くなってから実家の片付けに行ったのですが、実に綺麗で無駄が無く、

「あぁ、こんな風に自分も在りたいな」と実感しました。

実家の売却をするにも物が多過ぎてどこから手を付ければいいのか!という声は多く聞かれますが、

整理整頓好き、物を増やさない父のおかげで死後のやるべきことがとてもスムーズでした。

そこからはまるで、父が憑依したかのように「自分が機嫌良くいるために片付けよう、無駄を省こう」と考えて動けるようになっていったのです。

父の悪口を率先して言っていた母の毒気に気付かされた…

今思えば、友達のようになんでも話せる母はしょっちゅう『夫の悪口を子どものわたしに言う人』でした。

おもしろ可笑しいネタにすることもありましたが、自分の不満を本人に言えず、子どもに気持ちをぶつけてウサを晴らしていた感が強いです。

そして恐ろしいことにこの習慣はわたしの体に染みつき、気づけば自分の息子に夫の愚痴を聞かせる生活になっていました。

これじゃいかん!と反省しますが、何十年も母に聞かされ同調して父を嫌いになった自分の経験はなかなか根深く、ぐるぐる思考が止まらない現実にビックリです。

幸い息子は父親を尊敬しており、わたしが愚痴ると嫌な顔をして話を変えます。

(思春期になり、親と喋る時間が激減したのでこのように客観視してブログにつづることができました)

仲良し親子と思っていた母親が実は毒親だった!ということは案外多いのかもしれません。

わたしは母を嫌いにはなってませんが、自分の息子はどう感じてるんだろう。。。

親となった自分は気を付けなければいけませんね。

親の死で気づいたこと2:次につなげるために生きるという希望

親の死で気づいたこと2:次につなげるために生きるという姿勢

父は孫が生まれたのをきっかけに本格的に終活を始めました。

赤ちゃんが生まれた新しいスタートなのに、自分の死の話ばかりする父が正直とても辛気臭く感じて拒否反応が出てしまい、父からの連絡がうっとうしく感じたのが正直なところでした。

しかし、父母のいない今、わたしは終活をものすごく意識しています。

自分が何かしたい、欲しい状況になっても「これはずっと必要ではないな、買わずに子どものために(お金を)取っておこう」と考えるようになったのです。

母もこの考え方は同じで地味な人だったので、子どものころは「なんか貧乏くさい、歳をとると自分にお金かけなくなって、嫌だなぁ」くらいに思ったものです。

そもそもお金持ちではありませんので、子どものわたしにお金をかけてくれるわけでもありません。

そのため、当時は「ケチ」「なりふり構わないダサい親」と映っていたのです。

今思えば子どもの未来のために、無駄遣いしないようにしていたんだなとわかります。

それが苦しみなのではなく、希望や生きがいであったことも。

健康にはお金をかけるようになったけれどあくまでも正攻法で…

父は倹約家ではあったものの、病院に定期的に通って健康チェックしたり、歯医者で歯の手入れをしたりすることにはお金を使う人でした。

健康に関しては「うさんくさいものには手を出さない」が信条で、テレビCMで宣伝しているサプリや民間療法的なものは「高いだけで効果がない。むしろ病気の発見を遅らせたり悪化させたりしてしまう」という考え方です。

わたしはその真逆で、とにかく病院が嫌い。

お金がかかってもドラッグストアやネットで購入できる薬でしのごうとしたり、とにかくタンパク質を取れば健康になれるというのを妄信。プロテインを飲み過ぎたりしてしまったのです。

すると健康診断で腎臓の数値がおかしくなりました。

プロテインをやめたら元にもどったので、運動量が少ないわりに摂りすぎていたんでしょうね。

健康診断に行く、歯の点検をする、ちゃんと食べて運動して寝る。

正攻法で長生きした父のやり方に今はひたすら従っています(笑)

その方がコストもぜんぜんかからないですしね。

親の死で気づいたこと3:とにかく親に甘えすぎていたと実感

親の死で気づいたこと3:とにかく親に甘えすぎていたと実感

いくつになっても親は子どもを子どもと思っている。なんて言いますが、わたしは年齢をかさねても特に無自覚な子どもおばさん系の人間です。

遠く離れた親から連絡があっても、気が乗らないと嫌な声や態度丸出しでしたし、自分の愚痴を聞いてほしいときはズルズルと長電話して一方的に話すわがまま娘でした。

それが、亡くなってしまうともう二度とできません。

「いつまでも子ども」という立ち位置がスッパリとこの世から消えたのです。

夫は多くの男性と同様、女性の話をじっくり聞いて共感して…なんてタイプではありませんので、もう寄り添って話を聞いてくれる家族はいません。

「わが父母はかけがえのない存在だったんだな」としみじみ思います。

わたしは息子の話をさえぎってちゃんと聞けないところがあるので、親として甘えさせてあげる器の小さすぎる自分にうんざりな今日この頃です。

日々の雑事に追われ、気持ちに余裕がないことが原因かもしれないので、できるだけ暮らしをシンプルに、小まめに片付けや掃除をして目から入る情報を減らす努力をしています。

親の死によって甘える立場から、子どもをおおらかに包み込んでときに甘えさせてあげられるようになりたいものです。

まとめ

親の死から年月が経っていくと、悲しみの気持ちもかなりやわらいでいきます。

でもそれと同時に空虚感や寂しさ、つながりが途絶えたことで自分自身がしっかりしていかなきゃならない…という強さと弱さが同居した感じになっています。

それでも正直、親が亡くなってこの世に居ないからこそ『自由にふるまえる』部分が増えたことも事実です。

そう考えれば、年齢を重ねていくことも楽しみになってくるし、新しいことを始めてみようかな?という気力にもつながっていくでしょう。

ここ最近は数十年ぶりにピアノの練習も始めました。

父が息子(孫)にプレゼントしたけれど、まったく弾くことのなかったキーボードが押し入れに眠っていることを思い出したからです(笑)

血のつながった親子ですから、遺伝によるものが出て来ただけかもしれませんが、母親似だと思い込んでいた若い時期に比べ、今は今で生きやすくなった気がします。

とりとめのない文章を最後までお読みいただき、ありがとうございました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました